于右任(1879-1964)
近代の著名な教育家、詩人、書家。陝西省三原県の人。
1879年4月11日、三原県東関河道巷に生まれ、7歳で初めて私塾に入り、後に三原宏道書院、涇陽味経書院、西安関中書院深造で学びました。1898年、歳試の成績1番であったことから、官費生になります。 1903年、詩集『半哭半笑楼詩草』が発行されました。1906年11月、同盟会に加入。1907年から1910年まで、『神州日報』(1907年4月2日創刊)、『民呼日報』(1909年5月15日創刊)、『民吁日報』(1909年10月3日創刊)、『民立報』(1910年10月11日創刊)などを相次いで創始し、雑誌で内政を批判し、国際正義を広め、革命を宣伝しました。1911年、孫文が自筆で「戮力同心」という字句を書き記し『民立報』のために激励しました。南京で中華民国臨時政府が設立されると、于右任は交通部次長(運輸次官)に任ぜられました。その後、『民立報』停刊となり、袁世凱を避けて日本に住み、反袁世凱闘争に参画しました。
1918年8月、陝西靖国軍総司令に就き、孫文の護法運動に応じました。1922年10月、国立上海大学の創設に参与し校長となります。1925年、国民政府が広州で設立され、1926年1月于右任は中国国民党中央執行委員に選出されました。同年、馮玉祥とともに五原誓師に参加し、劉鎮華の西安包囲を突破し、国民聯軍駐陝総司令として全省の政務を代行します。1930年11月、国民党三届四中全会に出席し、于右任が国民政府委員と監察院院長に任命されました。第二回国共合作期には中国共産党と良好な関係を保っていました。
1949年春、国民党と共産党の和議交渉が北平(北京)で行われ、李宗仁より特使として派遣されました。和議交渉決裂後北平へ行く機会を覗っていましたが、願いは叶わず、11月29日に台湾に渡りました。
于右任は碑銘・金石を嗜み好み保護、収集した。1920・30年代、古代碑志収集に16万銀元を費やしましたが、1937年長年収集した古碑を新築された碑林博物館にすべて寄贈しました。合計318種類、384塊にのぼります。そのうち、『夫人管氏墓志』、『元珍墓志』、『穆亮墓志』などは国家一級文物に指定されています。
1964年11月10日、病気のため台湾で死去しました。