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楊虎城(1893-1949)

軍人、張学良と共に有名な西安事変を起した人。陝西蒲城人。

1893年11月26日、陝西蒲城県孫鎮甘北村の農民家庭に生まれ、10歳で時私塾に入りますが、13歳の時貧困のため退学しました。“中秋会”に参加し救貧活動を行い、“刀客”という組織と連携して武闘行動を行います。地方民団に編入され、地方民団団長に任命されます。陝西護国軍に参加して袁世凱討伐活動を行いました。1917年北洋軍閥に反対する靖国軍に参加、また国民党に参加しました。1924年1月楊虎城は国民党に加入し、ロシアとの連合、共産党との連合、農民・労働者階層の扶助という孫文の三大政策を擁護し、国民軍師長、国民革命軍軍長、十七路軍総指揮官などを歴任しました。1928年11月第二集団軍第21師師長となります。1929年蒋介石と馮玉祥の関係が分裂した時、軍隊を率いて蒋介石に身を投じ、新編第14師師長となり河南省に駐在しました。 蒋馮戦争と蒋唐(生智)戦争に参加、1930年蒋馮閻戦争中に、蒋介石軍第7軍軍長、第17路軍総指揮官に任ぜられ部隊を率いて馮玉祥軍を攻撃しました。同年10月陝西省政府主席を兼任。

1931年の“九一八”事変後、楊虎城将軍は蒋介石の“攘外必先安内”(中国国内を団結させた後外敵にあたる)という政策に反対して抗日を主張します。 1932年1月西安軍区(綏靖公署)主任となります。1935年陝西軍区(綏靖公署)主任となり、陝南で紅軍25軍を阻止する命令を受けますがが敗北しました。同年4月陸軍2級上蒋に任ぜられます。1936年12月12日張学良と共に“兵諫(西安事変)”を起こし、蒋介石を拘留して、抗日救国八項目の主張を全国に通知し、中国共産党に西安へ代表を派遣して救国提案を相談することを要請しました。国民党と共産党の第二回合作を促し、全国の抗日戦争を推進させました。

西安事件が平和裡に解決された後、楊虎城将軍は“出洋監察”を余儀なくされます。抗日戦争勃発後、中国に戻り抗日戦争に参加したい旨を申し出ますが蒋介石に拒絶されます。その後12年間監禁され、1949年9月6日重慶松林派坂“戴公祠”に秘密裡に殺害されました。1950年2月陝西省人民政府は革命に殉じた楊虎城将軍の遺骸を革命烈士として長安韋曲少陵原畔に埋葬しました。

周恩来は楊虎城を中華民族の「千古功臣」と称えました。蒲城県東槐院巷29番にあった楊虎城の故居を改造し、楊虎城将軍記念館が建てられています。1983年11月に開館してから愛国主義教育のベースになっています。

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